長野県日体協公認スポーツドクター協議会のあゆみ
吉松 俊一
私共の協議会が創設された当時、スポーツドクターという名称が実際にあったか定かではありません。初代会長中島深水先生は、そんな時代にご自身がテニスの名プレーヤーであり、テニスを中心にスポーツ医学の必要性について
県民に関心をもたせました。
二代目は、スポーツ医学に並々ならぬ情熱をもっておられた故丸山庸雄先生が最適でしたが、私が母校である慈恵医大に出張した日に大学に電話があり「どうしても君に二代目を引き受けてほしい。決めたから。」といわれ、
携帯電話もない時代、お断りする間もありませんでした。
実はそれから一カ月くらいで丸山先生が突然亡くなられてしまいました。その後、中島先生も亡くなられ、ほとんど引き継ぎもなかったため長野県体育協会の原田良介先生と相談。これからのスポーツ医学はリハビリ関係の先生と
手を携えていくのがベストだと申し上げました。
それから、プロ野球選手の健康管理を偶然に引き受けることになり、12球団のトレーナーと仲良く仕事をしてきた経験をもとに、原田先生の超積極的な協力もいただきながら、日本で一番早く長野県にPT.ジャタックの原和正先生、またスポーツの現場と深く関わった長野県体育協会の先生方にも声をかけさせていただきました。この間、信濃毎日新聞社 高野記者(後の冬季オリンピック開催の影の功労者)のスポーツと医科学の関連性についての記事は、スポーツドクターにとっても大きな存在であり、スポーツ医学について県民に
深い関心をもたせました。その功績は図り知れないものでした。
三代目は、心臓の手術を受けて間もない桑原宣彦先生に無理にお願いしました。運営にはアドリブの利く方がよいと考えていたので、まさにぴったりの方でした。常に笑いがあり、先生の在任中の数年間は実に楽しいものでした。
宴会も一番多かったと思います。和をつくるための功績は大でした。
四代目は、水泳を中心にスポーツ医学の普及に、よりご盡力いただいていた現 長野日赤病院副院長の金物壽久先生にご多忙の中、お願いしました。また同じ長野日赤病院整形外科リハビリテーション科の加藤光朗先生のご協力も大きく、少しずつ方向性がしっかりしてきた中でスポーツドクターをまとめるのに先生のお人柄とスポーツへの広い見識がどうしても必要な時期でしたので、先生のお陰でスポーツドクターの数は倍増しました。
この時も宴会は多かったと思います。
さて五代目は、古川善行先生。長野県体育協会の財政上の問題もあり、それまで体育協会におんぶだったものを一部分離して独自の体制をもたなければならないところ、この財政上の難局面を打開するには、鋭利な頭脳とシャープな運営ができる先生以外考えられませんでした。先生の手腕で事務局を初めて開設、きめの細かい配慮をされ好評を得ている堀内小夜子さんを見つけてこられたのは大きなことでした。国体のドクター派遣にも非常にスムーズに敏腕をふるっていただいています。また、長野県体育協会事務局長 町田暁世先生、
スポーツ医科学委員会への橋渡しをされている飯島昭久先生にも
大変お世話になっていることを感謝します。
自分の時間をさかねばならないことが多くご苦労もありますが、
今後もどんどん多くの先生がこのドクター協議会にお入りいただき、
長野県日体協公認スポーツドクター100年の計に腕をふるって下さることをお願いします。
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